海辺のカフカ (下) (新潮文庫)のレビュー
評価が分かれる作品
主人公を軸とする物語とナカタ&ホシノ青年を軸とする物語が
同時進行しつつ、徐々にシンクロしていくストーリー。
後者の物語がほのぼの珍道中でとても面白い。
一方、主人公側の話にはあまりのめり込めなかった。
個人的に、頭で色々考える人間よりとっとと行動する人間の方が
好きなので(もちろん主人公も行動しているけれど)、それが
原因かもしれないし、美味しそうな料理が多いのも一因かもしれない。
ホシノ青年は、あの部屋を出てからもネコの言葉が分かる人間なのだろうか。
それがこの本で一番の気になるところだ。
いずれにせよ、通常の村上作品らしくするすると読めるが、これは
村上作品をあまり読んでいないか初めての人の方が評価が高い
のではないだろうか。
村上作品は、ねじまき鳥クロニクルを境として、方向性が微妙に
変わっていったような気がする。
その変化を好むか好まないかによって、評価も分かれるだろう。
同時進行しつつ、徐々にシンクロしていくストーリー。
後者の物語がほのぼの珍道中でとても面白い。
一方、主人公側の話にはあまりのめり込めなかった。
個人的に、頭で色々考える人間よりとっとと行動する人間の方が
好きなので(もちろん主人公も行動しているけれど)、それが
原因かもしれないし、美味しそうな料理が多いのも一因かもしれない。
ホシノ青年は、あの部屋を出てからもネコの言葉が分かる人間なのだろうか。
それがこの本で一番の気になるところだ。
いずれにせよ、通常の村上作品らしくするすると読めるが、これは
村上作品をあまり読んでいないか初めての人の方が評価が高い
のではないだろうか。
村上作品は、ねじまき鳥クロニクルを境として、方向性が微妙に
変わっていったような気がする。
その変化を好むか好まないかによって、評価も分かれるだろう。
”海辺”という狭間で僕が目にしたもの
「そこにいると、自分があとに引き返せないくらい、損なわれていく気がしたんです。自分があるべきではない姿に変えられてしまう、ということです。」
「でも、時間というものがある限り、誰もが結局は損なわれて、姿を変えられていくものじゃないかしら。遅かれ早かれ。」
「たとえいつかは損なわれてしまうにせよ、引き返すことのできる場所は必要です。」
「引き返すことのできる場所?」
「引き返す価値のある場所のことです。」
「大島さんには乗り越えなくてはならない課題はないの?」
「乗り越えるも何も、僕がやるべきことはたったひとつしかない。この僕の肉体という、何にもまして欠陥だらけの入れ物の中で、何とか日々を生きのびていくことだけだよ。単純といえば単純だし、難しいといえば難しい課題だ。いずれにせよ、うまくそれができたからって、偉大な達成とみなされるわけでもない。誰かが立ち上がって温かく拍手してくれるわけでもない。」
「でもね、僕だって自分という現実の入れ物が決して気に入っているわけじゃないんだ。当たり前の話だ。便利か不便かという文脈で言えば、はっきり言ってひどく不便だ。しかしそれにもかかわらず、僕は内心こう考えている。外郭と本質を逆に考えれば、つまり外殻を本質ととらえ、本質を外殻だと考えるようにすれば、僕らの存在の意味みたいなものはひょっとしてもっとわかりやすくなるんじゃないかってね」
「ヘーゲルは自己意識というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離れ離れに認識するだけでなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。私たちはこうしてお互いに自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。」
「お前もわからん奴だな。啓示というものはそういうもんなんだ。啓示とは日常性の縁を飛び越えることだ。啓示なしに何の人生だ。ただ観察する理性から行為する理性へと飛び移ること、それが大事なんだ。わしの言っていることが分かるか、このメッキしゃちほこボケ。」
「いいか、ホシノちゃん。神様ってのは人の意識の中にしか存在しないんだ。とくにこの日本においては、良くも悪くも、神様ってのはあくまで融通無碍なものなんだ。その証拠に戦争の前に神様だった天皇は、占領軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍から、”もう神様であるのはよしなさい”という指示を受けて、”はい、私はもう普通の人間です。”って言って、1946年以降は神様ではなくなってしまった。日本の神様ってのはそれくらい調整のきくもんなんだ。いると思えばいる。いないと思えばいない。そんなもののことをいちいち気にすることはない。」
「いいか、ホシノちゃん。すべての物体は移動の途中にあるんだ。地球も時間も概念も、愛も生命も、正義も悪も、全てのものごとは液状的で過度的なものだ。ひとつの場所にひとつのフォルムで永遠に留まるものはない。宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ。」
「田村カフカ君、あるいは世の中のほとんどの人は自由なんて求めてはいなんだ。求めていると思い込んでいるだけだ。全ては幻想だ。覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ。すべての文明は柵で仕切られた不自由さの産物なんだ。最もオーストラリア大陸のアボリジニだけは別だ。彼らは柵をもたない文明を17世紀まで維持していた。彼らは根っからの自由人だった。好きな時に好きな所へ行って、好きなことをすることができた。彼らの人生は文字通り歩きまわることだった。歩き回ることは彼らが生きることの深いメタファーだった。イギリス人がやってきた家畜を入れるための柵を作った時、彼らはそれが何を意味するのかさっぱり理解できなかった。そしてその原理を理解できないまま、反社会的で危険な存在として荒野に追い払われた。だから君もできるだけ気をつけた方がいい、田村カフカ君。結局のところ、この世界では、高くて丈夫な柵を作る人間が有効に生き残るんだ。それを否定すれば君は荒野に追われることになる。」
「あなたは強くなりたいのね」
「強くならないと生き残っていかないんです。特に僕の場合は。」
「あなたはひとりぼっちだから」
「誰も助けてはくれない。少なくともこれまでは誰も助けてはくれなかった。だから自分の力でやっていくしかなかった。そのためには強くなることが必要です。はぐれたカラスと一緒です。だから僕は自分にカフカという名前を付けた。カフカというのはチェコ語でカラスのことです。」
「でもそういう生き方にも限界があるんじゃないかしら。強さを壁にしてそこに自分を囲い込むことはできない。強さというものは、より強いものによって破られるものなのね。原理的に。」
「強さそのものがモラルになってしまうから。」
「あなたはとてもわかりがいいのね」
「僕が求めているのは、僕が求めている強さというのは、勝ったり負けたりする強さじゃないんです。外からの力をはねつけるための壁が欲しいわけでもない。僕が欲しいのは外からやってくる力を受けて、それに耐えるための強さです。不公平さや不運や悲しみや誤解や無理解。そういう物事に静かに耐えていくための強さです。」
「それは、多分、手に入れるのが一番むずかしい種類の強さでしょうね」
「知っています」
「私のまわりで何かが変わり始めているような気がする。」
「うまくいえない。でも私にはそれがわかるの。気圧や、音の響き方や、光の反映や、体の動きや、時間の移り方が少しずつ変化している。小さな変化のしたたりがちょっとずつ集まって、ひとつの流れが出来上がっていくみたいに。」
「僕の子供時代からはずいぶん沢山のものが奪い取られてきました。たくさんの大事なものです。僕は今のうちにいくらかでもそれを取り返さなくてはならない。」
「そうすることが必要なんです。人には戻ることのできる場所みたいなものが必要なんです。今ならまだ間に合うことがある。たぶん。」
「あの頃は何も考えなくて良かった。ただそのまんま生きていればよかったんだ。生きている限り、おれはなにものかだった。自然にそうなっていたんだ。でもいつの間にかそうではなくなってしまった。生きることによって、俺はなにものでもなくなってしまった。そいつは変な話だよな。人ってのは生きるために生まれてくるんじゃないか。そうだろう?それなのに、生きれば生きるほど俺は中身を失っていって、ただの空っぽな人間になっていったみたいだ。そしてこの先さらに生きれば生きるほど、俺はますます空っぽで無価値な人間になっていくのかもしれない。そいつは間違ったことだ。そんな変な話はない。その流れをどこかで変えることはできるのだろうか?」
「ハイドンはある意味では謎の人です。彼が内奥にどれほどの激しいパトスを抱えていたか、それは正直なところ誰にもわかりません。しかし、彼が生まれおちた封建的な時代にあっては、彼は自我を巧妙に服従の衣で包み、にこやかにスマートに生きていくしかありませんでした。そうしなければ、彼はきっと潰されていたでしょう。多くの人々はバッハやモーツァルトに比べてハイドンを軽く見ます。その音楽においても、生き方においても。確かに彼はその長い人生を通して、適度に革新的ではありましたが、決して前衛的ではありませんでした。しかし、心をこめて、注意深く聞けば、近代的自我への秘められた憧憬をそこに読み取ることができます。それは矛盾を含んだ遠いこだまとして、ハイドンの音楽の中に黙々と脈打っているのです。例えば、この和音をお聞きください。ほらね、静かではありますが、少年のような柔軟な好奇心に満ちた、そして,求心的かつ執拗な精神がそこにはあります。」
「こういう言い方は冷たく響くかもしれないけれど、今のところ佐伯さんに関して、君にできることは何もない。君はこれから一人で山の中に入って、君自身のことをするんだ。君にとっても、ちょうどそういう時期が来ている。」
「僕自身のこと?」
「耳を澄ませればいいんだ、田村カフカ君。耳を澄ませるんだ、蛤のように注意深く。」
「そうだ。相互メタファー。つまり、迷宮というものの原理は君自身の内側にある。そしてそれは君の外側にある迷宮と呼応している。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身のうちにセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ。」
「そう。ヘンゼルとグレーテルみたいに。森は罠を仕掛けている。君がどれだけ用心して工夫しても、目ざとい鳥たちがやってきて目印のパンくずを食べてしまう。」
「だからさ、おじさんも字が読めねえってのはきっと不便だろうけど、つらいこともあるだろうけど、それがすべてじゃないんだ。たとて字が読めなくたって、おじさんにはおじさんにしかできないことがある。そっちの方を見なくちゃいけない。たとえばほら、おじさんは石とだって話ができるじゃないか。それは、たぶんナカタさんにしかできねえことだ。どれだけいっぱい本を読んでも、普通の人は石や猫とは話せないものなんだ」
「俺は字は読めるけど、本なんてさっぱり読みやしない。世の中ってうまくいかねえもんだよな。」
「でも、時間というものがある限り、誰もが結局は損なわれて、姿を変えられていくものじゃないかしら。遅かれ早かれ。」
「たとえいつかは損なわれてしまうにせよ、引き返すことのできる場所は必要です。」
「引き返すことのできる場所?」
「引き返す価値のある場所のことです。」
「大島さんには乗り越えなくてはならない課題はないの?」
「乗り越えるも何も、僕がやるべきことはたったひとつしかない。この僕の肉体という、何にもまして欠陥だらけの入れ物の中で、何とか日々を生きのびていくことだけだよ。単純といえば単純だし、難しいといえば難しい課題だ。いずれにせよ、うまくそれができたからって、偉大な達成とみなされるわけでもない。誰かが立ち上がって温かく拍手してくれるわけでもない。」
「でもね、僕だって自分という現実の入れ物が決して気に入っているわけじゃないんだ。当たり前の話だ。便利か不便かという文脈で言えば、はっきり言ってひどく不便だ。しかしそれにもかかわらず、僕は内心こう考えている。外郭と本質を逆に考えれば、つまり外殻を本質ととらえ、本質を外殻だと考えるようにすれば、僕らの存在の意味みたいなものはひょっとしてもっとわかりやすくなるんじゃないかってね」
「ヘーゲルは自己意識というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離れ離れに認識するだけでなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。私たちはこうしてお互いに自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。」
「お前もわからん奴だな。啓示というものはそういうもんなんだ。啓示とは日常性の縁を飛び越えることだ。啓示なしに何の人生だ。ただ観察する理性から行為する理性へと飛び移ること、それが大事なんだ。わしの言っていることが分かるか、このメッキしゃちほこボケ。」
「いいか、ホシノちゃん。神様ってのは人の意識の中にしか存在しないんだ。とくにこの日本においては、良くも悪くも、神様ってのはあくまで融通無碍なものなんだ。その証拠に戦争の前に神様だった天皇は、占領軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍から、”もう神様であるのはよしなさい”という指示を受けて、”はい、私はもう普通の人間です。”って言って、1946年以降は神様ではなくなってしまった。日本の神様ってのはそれくらい調整のきくもんなんだ。いると思えばいる。いないと思えばいない。そんなもののことをいちいち気にすることはない。」
「いいか、ホシノちゃん。すべての物体は移動の途中にあるんだ。地球も時間も概念も、愛も生命も、正義も悪も、全てのものごとは液状的で過度的なものだ。ひとつの場所にひとつのフォルムで永遠に留まるものはない。宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ。」
「田村カフカ君、あるいは世の中のほとんどの人は自由なんて求めてはいなんだ。求めていると思い込んでいるだけだ。全ては幻想だ。覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ。すべての文明は柵で仕切られた不自由さの産物なんだ。最もオーストラリア大陸のアボリジニだけは別だ。彼らは柵をもたない文明を17世紀まで維持していた。彼らは根っからの自由人だった。好きな時に好きな所へ行って、好きなことをすることができた。彼らの人生は文字通り歩きまわることだった。歩き回ることは彼らが生きることの深いメタファーだった。イギリス人がやってきた家畜を入れるための柵を作った時、彼らはそれが何を意味するのかさっぱり理解できなかった。そしてその原理を理解できないまま、反社会的で危険な存在として荒野に追い払われた。だから君もできるだけ気をつけた方がいい、田村カフカ君。結局のところ、この世界では、高くて丈夫な柵を作る人間が有効に生き残るんだ。それを否定すれば君は荒野に追われることになる。」
「あなたは強くなりたいのね」
「強くならないと生き残っていかないんです。特に僕の場合は。」
「あなたはひとりぼっちだから」
「誰も助けてはくれない。少なくともこれまでは誰も助けてはくれなかった。だから自分の力でやっていくしかなかった。そのためには強くなることが必要です。はぐれたカラスと一緒です。だから僕は自分にカフカという名前を付けた。カフカというのはチェコ語でカラスのことです。」
「でもそういう生き方にも限界があるんじゃないかしら。強さを壁にしてそこに自分を囲い込むことはできない。強さというものは、より強いものによって破られるものなのね。原理的に。」
「強さそのものがモラルになってしまうから。」
「あなたはとてもわかりがいいのね」
「僕が求めているのは、僕が求めている強さというのは、勝ったり負けたりする強さじゃないんです。外からの力をはねつけるための壁が欲しいわけでもない。僕が欲しいのは外からやってくる力を受けて、それに耐えるための強さです。不公平さや不運や悲しみや誤解や無理解。そういう物事に静かに耐えていくための強さです。」
「それは、多分、手に入れるのが一番むずかしい種類の強さでしょうね」
「知っています」
「私のまわりで何かが変わり始めているような気がする。」
「うまくいえない。でも私にはそれがわかるの。気圧や、音の響き方や、光の反映や、体の動きや、時間の移り方が少しずつ変化している。小さな変化のしたたりがちょっとずつ集まって、ひとつの流れが出来上がっていくみたいに。」
「僕の子供時代からはずいぶん沢山のものが奪い取られてきました。たくさんの大事なものです。僕は今のうちにいくらかでもそれを取り返さなくてはならない。」
「そうすることが必要なんです。人には戻ることのできる場所みたいなものが必要なんです。今ならまだ間に合うことがある。たぶん。」
「あの頃は何も考えなくて良かった。ただそのまんま生きていればよかったんだ。生きている限り、おれはなにものかだった。自然にそうなっていたんだ。でもいつの間にかそうではなくなってしまった。生きることによって、俺はなにものでもなくなってしまった。そいつは変な話だよな。人ってのは生きるために生まれてくるんじゃないか。そうだろう?それなのに、生きれば生きるほど俺は中身を失っていって、ただの空っぽな人間になっていったみたいだ。そしてこの先さらに生きれば生きるほど、俺はますます空っぽで無価値な人間になっていくのかもしれない。そいつは間違ったことだ。そんな変な話はない。その流れをどこかで変えることはできるのだろうか?」
「ハイドンはある意味では謎の人です。彼が内奥にどれほどの激しいパトスを抱えていたか、それは正直なところ誰にもわかりません。しかし、彼が生まれおちた封建的な時代にあっては、彼は自我を巧妙に服従の衣で包み、にこやかにスマートに生きていくしかありませんでした。そうしなければ、彼はきっと潰されていたでしょう。多くの人々はバッハやモーツァルトに比べてハイドンを軽く見ます。その音楽においても、生き方においても。確かに彼はその長い人生を通して、適度に革新的ではありましたが、決して前衛的ではありませんでした。しかし、心をこめて、注意深く聞けば、近代的自我への秘められた憧憬をそこに読み取ることができます。それは矛盾を含んだ遠いこだまとして、ハイドンの音楽の中に黙々と脈打っているのです。例えば、この和音をお聞きください。ほらね、静かではありますが、少年のような柔軟な好奇心に満ちた、そして,求心的かつ執拗な精神がそこにはあります。」
「こういう言い方は冷たく響くかもしれないけれど、今のところ佐伯さんに関して、君にできることは何もない。君はこれから一人で山の中に入って、君自身のことをするんだ。君にとっても、ちょうどそういう時期が来ている。」
「僕自身のこと?」
「耳を澄ませればいいんだ、田村カフカ君。耳を澄ませるんだ、蛤のように注意深く。」
「そうだ。相互メタファー。つまり、迷宮というものの原理は君自身の内側にある。そしてそれは君の外側にある迷宮と呼応している。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身のうちにセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ。」
「そう。ヘンゼルとグレーテルみたいに。森は罠を仕掛けている。君がどれだけ用心して工夫しても、目ざとい鳥たちがやってきて目印のパンくずを食べてしまう。」
「だからさ、おじさんも字が読めねえってのはきっと不便だろうけど、つらいこともあるだろうけど、それがすべてじゃないんだ。たとて字が読めなくたって、おじさんにはおじさんにしかできないことがある。そっちの方を見なくちゃいけない。たとえばほら、おじさんは石とだって話ができるじゃないか。それは、たぶんナカタさんにしかできねえことだ。どれだけいっぱい本を読んでも、普通の人は石や猫とは話せないものなんだ」
「俺は字は読めるけど、本なんてさっぱり読みやしない。世の中ってうまくいかねえもんだよな。」
また残念です
上巻のレビューでも書いたが、芸術・文学一般にたいする著者のコンプレックスがむき出しになっているようで、通読しても、小説としてはほとんど読むに耐えない代物だった気がする。
結局のところ、リアリズムや想像力自体を信じていない著者という存在が透けて見えるばかり。ありきたりな構成に、これまた甚だしくリアリティーに欠ける登場人物たちを泳がせてみても、それで面白いとは感じえず。
作中において、私自身多少なりとも思い入れのある過去の作家達が、登場人物によって精読・吟味?されたうえで、簡単に意味解釈の俎上にあげられ次々と消化されていく。これを小説としても、批評としても、どのように読んだらいいのか?という違和感を強く感じる。ただし作中そのような扱いを免れている作家もいることはいる。オペラのメロディーを鼻歌で歌うとかの描写や、ポップカルチャーの感想など。それらには違和感はあまり感じない。問題は古典的な作家の扱いと、メタファーやら必然性とかの言葉がやけにデタラメに登場しているあたりが痛すぎるというかんじ。実際にもストーリーがそのような言い訳じみた方法論的な意味づけと共に、まったく必然性を提示できないままに進行していくのが、本当にナンセンスであり、最早ここに至ってはユーモアすら感じない。
ということでこの作品は、想像の力というものをはなから信じていない著者が、同じくそのような読者むけに書いたというような代物ではないか?という気がやはりする。としてみると、数として多くの世界中の人達にこれだけ受けているというのもなにか納得できる。軽い読み物=非芸術的なものという感じで。またそのようなものを決してアンチ的な批判的図式でもなく、ごく平和的に提示している点も疑いえないのだが(それでいいのか?という疑問もある)。
結局のところ、リアリズムや想像力自体を信じていない著者という存在が透けて見えるばかり。ありきたりな構成に、これまた甚だしくリアリティーに欠ける登場人物たちを泳がせてみても、それで面白いとは感じえず。
作中において、私自身多少なりとも思い入れのある過去の作家達が、登場人物によって精読・吟味?されたうえで、簡単に意味解釈の俎上にあげられ次々と消化されていく。これを小説としても、批評としても、どのように読んだらいいのか?という違和感を強く感じる。ただし作中そのような扱いを免れている作家もいることはいる。オペラのメロディーを鼻歌で歌うとかの描写や、ポップカルチャーの感想など。それらには違和感はあまり感じない。問題は古典的な作家の扱いと、メタファーやら必然性とかの言葉がやけにデタラメに登場しているあたりが痛すぎるというかんじ。実際にもストーリーがそのような言い訳じみた方法論的な意味づけと共に、まったく必然性を提示できないままに進行していくのが、本当にナンセンスであり、最早ここに至ってはユーモアすら感じない。
ということでこの作品は、想像の力というものをはなから信じていない著者が、同じくそのような読者むけに書いたというような代物ではないか?という気がやはりする。としてみると、数として多くの世界中の人達にこれだけ受けているというのもなにか納得できる。軽い読み物=非芸術的なものという感じで。またそのようなものを決してアンチ的な批判的図式でもなく、ごく平和的に提示している点も疑いえないのだが(それでいいのか?という疑問もある)。
静と動
●1回目(2008/11/21)
抽象的な世界において展開されており、読み手や読む状況によっていくつもの解釈が可能である作品だと思う。
哲学が様々な場面で散見する事ができ、心に響く台詞がいくつかあった。とりわけ「世界はメタファーだ」という台詞が強く残った。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------●2回目(2010/02/23)
「比重のある時間が、多義的な古い夢のように君にのしかかってくる。君はその時間をくぐり抜けるように移動をつづける。たとえ、世界の縁までいっても、君はそんな時間から逃れることはできないだろう。でも、もしそうだとしても、君はやはり世界の縁まで行かないわけにはいかない。世界の縁まで行かないことにはできないことだってあるのだから。」
抽象的な世界において展開されており、読み手や読む状況によっていくつもの解釈が可能である作品だと思う。
哲学が様々な場面で散見する事ができ、心に響く台詞がいくつかあった。とりわけ「世界はメタファーだ」という台詞が強く残った。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------●2回目(2010/02/23)
「比重のある時間が、多義的な古い夢のように君にのしかかってくる。君はその時間をくぐり抜けるように移動をつづける。たとえ、世界の縁までいっても、君はそんな時間から逃れることはできないだろう。でも、もしそうだとしても、君はやはり世界の縁まで行かないわけにはいかない。世界の縁まで行かないことにはできないことだってあるのだから。」
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なかなか村上節が抜けないという期待を裏切れた1品。
近年、村上さんはベストセラーを連発している中では、
文庫本になってからでもいいやというような気持ちになってしまった。
村上ファンには少し劣る作品と思える。